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2023.11.06
2023年9月、世界的名手のお二人が紡ぐ、ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ全3曲を堪能できる、至福のデュオリサイタルツアーが行なわれました。
そのお二人とは、1990年史上最年少でチャイコフスキー国際コンクールを優勝し、近年はコンクールの審査員や音楽祭の芸術監督も務め、国際舞台で精力的に活動を続けるヴァイオリン界の女王・諏訪内晶子さん。そして2010年ショパン国際ピアノコンクール4位、その個性的な演奏で鬼才ピアニストとも称されるエフゲニ・ボジャノフさんです。
全6公演中の2公演を終えた某日、ブラームスの音楽の魅力、ヴァイオリンとピアノの掛け合いについてお話を伺いました。また後半には、ツアーで使用されたコンサートピアノ「シゲル・カワイ 」についてコメントをお寄せくださいました。
訊き手・文=道下京子(音楽評論家) Text=Kyoko Michishita
通訳=田村緑 Interpreter=Midori Tamura
———諏訪内さんとボジャノフさんの今秋のツアーがスタートしました。2公演を終えての感想をお聞かせください。
エフゲニ・ボジャノフさん(以下:ボジャノフ) とても順調です。実は、ブラームスのヴァイオリン・ソナタをひとつの公演で3曲すべてを演奏するのは、私にとって初めてのことで、大きなチャレンジでした。
諏訪内晶子さん(以下:諏訪内) このあと、録音の予定もあります。
———何故、ブラームスのヴァイオリン・ソナタを取り上げたのでしょうか?
諏訪内 これまでのリサイタルでは、リヒャルト・シュトラウスやベートーヴェン、モーツァルトなどの様々な作品を、ボジャノフさんと一緒に演奏してきました。コンサートは終わると、すべて終わってしまいますが、録音として残したいと思いました。現段階で、どの曲を録音として残すのが相応しいかと考えていましたが、昨年秋、デュイスブルクでブラームスの《ヴァイオリン・ソナタ第2番》を一緒に演奏したとき、多数のお客さまがとても良かったと言ってくださったのです。
ただ、ボジャノフさんにとっては少し考える時間が必要だったようです。
ボジャノフ 私は、いわゆる、ブラームス・プレーヤーではないと思います。自分の魂のレパートリーかと問われたとき、ブラームスについてそう言えるかどうか。もちろん、私はブラームスの音楽を、彼の交響曲やオーケストラの作品をとても愛しています。でも、ピアノ協奏曲を演奏したことはありません。
諏訪内 そしてこれからも演奏することはないそうです。
ボジャノフ ピアノ独奏の作品については、弾いたことはあるけれど、それほど大きな喜びではありませんでした。でも、彼の室内楽となると、少し違います。私にとっては大きな挑戦でした。彼女とも、十分すぎるほどリハーサルをしています。何が、どれくらい可能であるかを知るため、そしてどれくらい音楽的に到達できるかを探っていきました。
———ボジャノフさんは、2017年にリリースされたCDに、ブラームスの交響曲のピアノ独奏版も収めています。
ボジャノフ 編曲ものを演奏しました。
———レーガーの編曲ですね。
ボジャノフ そうです!シゲル・カワイで録音しています。いろんな音色を探すという意味でも、管弦楽の作品はとても好きです。
諏訪内晶子さんⒸ池上直哉
———ブラームスの音楽の魅力をお聞かせください。
諏訪内 長年ブラームスのヴァイオリン・ソナタを演奏し、またボジャノフさんとはおよそ一年半リハーサルと演奏を重ねてきて、ブラームスの魅力は、何と言っても音楽の深さだと思います。
ボジャノフ 私は、往年のヴァイオリニストとピアニストの録音をたくさん聴いています。例えば、トーシャ・ザイデルです!ザイデルのブラームスは、やはりオールド・スタイルで弾いているのですが、それがブラームスにとてもフィットしているのです。
諏訪内 ブラームスは、リートをたくさん作曲しています。フレーズの作り方でいくらでも演奏内容が変わるのは、ブラームスの魅力だと思います。特に室内楽は。
ボジャノフ このようなことを演奏に反映するには、十分な時間が必要です。
私の演奏は、ブラームスの楽譜を研究して解釈の方へ向かうというよりは、往年のヴァイオリニストの演奏の伝統からインスピレーションを得ています。
今日のような機械的に弾く人たちと比べ、往年のヴァイオリニストの演奏を聴くとき、特別な音色、特別な弾き方…それはとても難しいですが…そういう彼らの魅力的なポイントが私の耳を捉えます。
諏訪内 また、トーシャ・ザイデル(※注)の演奏を聴くとわかりますが、どれだけピアニストとデュオのリハーサルに時間をかけたかがわかります。すぐに合わせをして弾くことが、ボジャノフさんは嫌なようです。じっくりと時間をかけ、アンサンブルとして深く掘り下げ、こだわるところにこだわるのがボジャノフさんの方法です。
※注 トーシャ・ザイデルは諏訪内さんの恩師・江藤俊哉先生の名前の由来にもなっています(俊哉はトーシャから)。
———ブラームスのヴァイオリン・ソナタ3曲ですが、ピアノとヴァオリンとの掛け合いについて、どのようにバランスを考えていますか?
ボジャノフ ブラームスに限ったことではなく、すべてのデュオにあることだと思います。いつも調和を信じているわけではなく、時に激しく言い合い(笑)、調和のとれた瞬間にたどり着きます。メロディとハーモニーは簡単に分けられるものでもないです。
諏訪内 わかりきった解釈・演奏がとても嫌なのです。目に見えたものではなく、もっと細部にこだわりながら、崩さずに…そこを理解するまでに少し時間はかかりますが…
———ボジャノフさんの演奏は、細部にわたってとてもデリケートで、奥行きが深いのです。
諏訪内 私たちは、表現の極限を探求しています。あらゆる種類の多様性を、音色、優雅さ、リズム、そして細部にいたるまで…1音1音が同じだと嫌なのだそうです。
ボジャノフ それはテイストの問題でもありますね。
諏訪内 だから、ほかのものを壊さずにそういうことを細部にわたってこだわる…様式感を崩すことなく、そのあたりの絶妙なバランスやテイストにこだわります。
デュオのリハーサルは、毎月一日10時間ほどかけ、連続で3−4日行います。
———1日10時間のリハーサルでは、3曲のソナタを練習するのですか?
諏訪内 1日に1曲、または1曲半しかできません。
ボジャノフ それがリハーサルというものです。何かを成長させるには時間が必要です。コンサートを目標にするだけでなく、私は作品とともに一緒に成長しなければなりません。そして、ブラームスの内面へ入っていかなければなりません。ブラームスと対峙することで、デュオとしてどこまで遠くへ行けるか…そういう時間は贅沢な時間と言えるでしょう。
諏訪内 最後の最後まで妥協しない…彼は妥協という言葉を知らないのではないかと。真のアーティストです。
———ブラームスのヴァイオリン・ソナタのなかでも、特に第1番と第2番にはリートの要素があります。歌曲的なものを、どのように表現していますか?
ボジャノフ 第3番は、そう表現しているわけではありません。また、第2番は、もう少しシンフォニックかもしれません。第1番だけは、実際の歌曲が用いられています。
諏訪内 実際には、ヴァイオリンとピアノとはまったく響きは異なります。
ボジャノフ そうです、ヴァイオリン・ソナタの楽章の方が、歌曲よりもはるかに豊かなサウンドだからです。ですから、歌手が歌うように、それをまねして演奏するということではありません。ソナタに歌の様式をとり入れていて、その時代の語法とより結びついています。
諏訪内 とても造形力があり、立体感のある演奏です。その和声のなかでも、どこを主に出すかでまったく立体感は違ってきます。
例えば、第1番「雨の歌」の第3楽章を弾く時。「雨の歌」ですので、嵐があったり、いろんなことがあったりしますが、最後は虹がかかったようなハーモニーなのです。
ボジャノフ 雨のしずくというよりは、嵐です。ひとつのことについて、人はそれぞれ想像することが違います。
その作品に対して何を想像するかということを、聴き手に私たちは託しています。直接的なイメージを与えているわけではありません。
諏訪内 様々な演奏の幅をもたせられる可能性に対応できるように、準備しています。だから時間がかかるのです。ソロのときも、そのように準備しているようです。だから、レパートリーを広げ過ぎず、深く取り組んでいるようです。
エフゲニ・ボジャノフさん ⒸMarco-Borggreve
———ブラームスを、シゲル・カワイのピアノで演奏することについて。
ボジャノフ とても大きな喜びです。これは、ヴァイオリン・ソナタではなく、ブラームスはピアノとヴァオリンのためのソナタとして書いています。ベートーヴェンやモーツァルトもそうですが、ピアノが重要なパートを担っていることを言っておかなければなりません。ヴァイオリンを豊かにサポートするのが、この素晴らしいピアノです。
諏訪内 私はとてもピアノが大好きなのですが、シゲル・カワイについて反応がとても速いと思います。ハンマーのリアクションがほかの楽器よりも速く、同時にとても響きも長いのです。
ボジャノフ そう思います。そしてメカニックも。リアクションが本当に素晴らしいのです。でも、それはピアノだけはなく、それを可能にする調律師がいます。こうしたさまざまな人によって、1台のピアノとして完成されます。
すばらしい調律師は、1台のピアノからまるで5種類のピアノのサウンドをつくりだすことができます。それはピアニストにも言えることです。
———とても表現の可能性のある楽器だと思います。
ボジャノフ とてもカラフルで、とても深いサウンドをもっています。そして、とてもスイートな音色も持っているし、大きくて豊かな音、またすべての種類のニュアンスも可能です。これはピアノという楽器と、調律師たちとの共同作業の末に出来ることなのです。
———シゲル・カワイのピアノに初めて出会ったのはいつ頃ですか?
ボジャノフ ドイツのクレフェルトで。もちろん、学生時代にもカワイのピアノを弾いたことはあります。でも信じがたいことで、メカニカルなことだけではなく、音色に関してもそうですが、いまのカワイのピアノには目覚ましい進化があります。
諏訪内 良い調律師であればあるほど、ボジャノフさんが何も言わなくても、調律師がそのホールに最適なピアノを選び、音を調整してくださるのです。
ボジャノフ 優秀な調律師にはセンスがあります。彼らは、日本語で言うところの「空気を読む」ことができます(笑)
諏訪内 ちょっと違うかも…(笑)
———諏訪内さんはピアノもお上手だとうかがったことがあります。
ボジャノフ そう、思い出しました!昨日のコンサート前、私たちは別々の部屋で練習をしていました。練習していると、私が弾いていたフレーズと同じフレーズが聴こえてきました。私は頭がおかしくなってしまったのかと思っていたら、晶子さんが弾いていたのです。
◆シゲル・カワイのピアノへのコメント
ボジャノフ シゲル・カワイのピアノで演奏できるのは、最も大きな喜びです。
諏訪内 音色がとても豊かですね。ハンマーのリアクションは速いけれど、きつくなくて、ソフトでもなく、それはタッチでコントロールするのでしょうが、反応が速いのです。音の波は深いので、両方の音が出るのだと思います。音の立ち上がりが速く、深いウェーブを感じます。
ボジャノフ 無限の可能性のある音。ピアノに大きな革命をもたらした楽器です。
※注 諏訪内さんは、パリのご自宅でもシゲル・カワイをご使用くださっています。
Profile: ヴァイオリニスト:諏訪内 晶子
1990年史上最年少でチャイコフスキー国際コンクール優勝。これまでに小澤征爾、マゼール、デュトワ、サヴァリッシュ、ゲルギエフらの指揮で、ボストン響、フィラデルフィア管、パリ管、ロンドン響、ベルリン・フィルなど国内外の主要オーケストラと共演。BBCプロムス、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン、ルツェルンなどの国際音楽祭にも多数出演。
近年ではゲルギエフ指揮ロンドン響とのツアー、パリ管とのヨーロッパおよび日本ツアー、チェコ・フィルとの中国ツアーを行い、オスロ・フィル、バンベルク響、デトロイト響、トゥールーズ・キャピトル管とも共演。
現代作曲家作品の紹介も積極的に行い、これまでにエサ=ペッカ・サロネン作曲「ヴァイオリン協奏曲」の日本初演(2013)、エリック・タンギ作曲「In a Dream」の世界初演およびフランス初演(2013)、キャロル・ベッファ作曲「ヴァイオリン協奏曲-A Floating World-」の世界初演(2014)などに取り組んでいる。
2012年、2015年、エリーザベト王妃国際コンクール、2018年ロンティボー国際コンクール、2019年チャイコフスキー国際コンクールヴァイオリン部門審査員。2012年より「国際音楽祭NIPPON」を企画制作し、同音楽祭の芸術監督を務めている。
レコーディングでは、デッカ・ミュージック・グループとインターナショナル・アーティストとして専属契約を結んでおり、最新作「J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ(全曲)」を含む15枚のCDをリリースしている。
桐朋女子高等学校音楽科を経て、桐朋学園大学ソリスト・ディプロマコース修了。文化庁芸術家在外派遣研修生としてジュリアード音楽院本科及びコロンビア大学に学んだ後、同音楽院修士課程修了。国立ベルリン芸術大学でも学び、2021年学術博士課程修了、ドイツ国家演奏家資格取得。
使用楽器は、日本にルーツをもつ米国在住のDr.Ryuji Uenoより長期貸与された1732年製作のグァルネリ・デル・ジェズ「チャールズ・リード」。
Profile: ピアニスト:エフゲニ・ボジャノフ
ブルガリア出身。ロベルト・シューマン音楽大学(ドイツ)でゲオルク・フリードリヒ・シェンクに師事。2008年リヒテル国際ピアノコンクール優勝。10年エリザベート王妃国際ピアノコンクール第2位。同年ショパン国際ピアノコンクール第4位入賞。
ユベール・スダーン、佐渡裕、ユッカ=ペッカ・サラステ、トゥガン・ソヒエフ、ダニエーレ・ルスティオーニら名匠の指揮で、ベルリン・ドイツ響、スウェーデン放送響、フィレンツェ五月音楽祭管、サンタ・チェチーリア国立アカデミー管、ロイヤル・リヴァプール・フィル、フィルハーモニア管、ヒューストン響などの名門楽団と共演。ショパン・フェスティバル(ポーランド)に度々招かれているほか、シュレスヴィッヒ=ホルシュタイン音楽祭(ドイツ)、ザルツブルク音楽祭(オーストリア)、マルタ・アルゲリッチ音楽祭(ドイツ)などにも出演。ベルリン・フィルハーモニーホール、ウィーン楽友協会、ロイヤル・フェスティバルホールなど、世界の主要ホールで演奏している。
日本では、2011年、15年、20年に兵庫芸術文化センター管弦楽団と共演。11年秋に行われたベルリン・ドイツ交響楽団の日本ツアーではソリストを務めた。12年サントリーホールでリサイタルを開催。15年ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン、16年横浜市招待国際ピアノ演奏会に出演。17年に5年ぶりとなる日本リサイタルツアーを開催。22年読売日本交響楽団と初共演し、評論家から『強靱なテクニックをもちながら自己をコントロールし・・・的確なバランス感覚、適切な洞察力を認識させる内容であった』と絶賛された。
これまでにCDを多数リリースしており、11年に発売された「フレデリック・ショパン」は<ドイツ・レコード評論賞>を受賞している。最新盤はシューベルト、ブラームス、R.シュトラウスなどドイツ・ロマン派の作品を集めた「明日!」(Avanti/NAXOS Japan)。
現在、ドイツの名門フォルクヴァンク芸術大学の教授として後進の指導育成にも力を入れている。